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「TNFD」とは?(対談記事)
企業に求められる新たな社会的責任として「生物多様性」への取り組みが注目されている。2023年9月には「自然関連財務情報開示タスクフォース(TNFD)」の開示提言第1版が公表され、「ネイチャーポジティブ」な活動の促進に向けた動きがいよいよ本格化しようとしている。生物多様性への取り組みは、今後の企業価値にどのような影響をもたらすのか。企業は生物多様性に対応するために、どのような施策を進めるべきなのか。東京大学 未来ビジョン研究センター グローバル・コモンズ・センター ダイレクターの石井菜穂子教授と、TNFDタスクフォースメンバーでもあるMS&ADインシュアランス グループ ホールディングス 原口真氏が意見を交わした。
INTERVIEWEES
MS&ADインシュアランス グループに入社以来、グループ内外の持続可能な経営に関するコンサルティングに従事。08年にはJBIB(企業と生物多様性イニシアティブ)の設立を推進し、顧問として活動。13年にはABINC(一般社団法人いきもの共生事業推進協議会)の設立に参画。21年には日本人としては初のTNFD(Taskforce on Nature-related Financial Disclosures)タスクフォースメンバーに選出され、情報開示の枠組み作りに取り組んでいる。
東京大学経済学部卒業、大蔵省(現財務省)入省。国際通貨基金(IMF)、ハーバード大学国際開発研究所、世界銀行、財務省副財務官などを経て2012年地球環境ファシリティCEO。2020年より現職。東京大学博士(国際協力学)。
TNFDや生物多様性への対応は不可避
TNFD開示提言第1版の内容を踏まえながら、世界における生物多様性への問題意識、日本政府や企業の動きについてお聞かせください。
原口
TNFD提言は基本的に、TCFD(気候関連財務情報開示タスクフォース)を踏襲し、「ガバナンス」「戦略」「リスクとインパクトの管理」「測定指標とターゲット」の4つを開示要件の柱としています。これらの要件に沿って、自然に関連する企業のリスク評価結果を投資家など外部に情報開示することを求めているわけですが、そもそもほとんどの企業は自社のビジネスと自然がどのようにつながっているのか、網羅的に思案した経験がありません。そこでTNFDは、リスク評価や情報開示のハウツーやシナリオを追加ガイダンスとして示しています。
日本では、22年12月の国連生物多様性条約締約国会議(COP15)で合意した国際目標を受けて政府が「生物多様性国家戦略2023-2030」を策定したり、環境省の「ネイチャーポジティブ経済研究会」を通じて生物多様性の観点から経済活動におけるリスクや機会を検討したりといった取り組みが始まっています。
石井
私は12年から8年間、地球環境ファシリティ(Global Environment Facility:GEF)※のCEOを務めましたが、当時から「気候変動」「自然・生物多様性喪失」「汚染」という3つの地球危機(トリプル・プラネタリー・クライシス)が世界的な問題として認識されていました。これまではそうした問題の解決策をどのように経済と統合・調和させるかという議論が交わされてきましたが、これらの危機は現在の経済システムが地球のキャパシティーに衝突するという意味で同根であり、いまはそれぞれを分けて議論されることはありません。すべてを経済システムのなかに含有して組み込もうというのが世界的な潮流であり、ここ数年で起きた大きな変化だと考えています。
そうしたなかで気候変動についてTCFDができ、それに続く形でTNFDができたのは当然の成り行きです。いずれもビジネスが背景にあり、サプライチェーン全体でこの問題に向き合わないとビジネスが成り立ちません。しかし、原口さんがおっしゃったように、ビジネスと自然がどのような関係にあるかを自社の課題として認識している企業はほとんどありません。だからこそ、こうした情報開示の提言を指針として世界全体で取り組む必要があります。
生物多様性の保全に向けた取り組みは、どんな業種・業界の企業に関連してくるのでしょうか。また、取り組みを進めるにあたり、どのような点に留意すべきですか。
原口
自社のビジネスと自然との関わりの深さを見ると、産業セクター(業種・業界)や国・地域によって異なります。しかし石井先生がおっしゃったように、もはや地球環境の危機に対する取り組みは、ビジネスはもちろん日常生活に含有させて考える必要があります。例えば、紙や水を一切使わずにビジネスを展開している企業が存在しないように、自然の恵みなしにはビジネスも生活も成立し得ないからです。つまり生物多様性の保全に向けた取り組みは、あらゆる産業セクターの企業に必ず関連するものなのです。
そうしたなかでTNFDは、自社のビジネスと自然との関係性をのぞくためのレンズのような役割を果たします。世界共通のレンズを用いてビジネスと自然との関係性を見つめ、ビジネスにネガティブな影響を与える課題を見極めるところから始める必要があります。この点に留意して取り組むべきだと考えています。
石井
原口さんの意見に同意します。私たちの生活も企業のビジネスも、自然に100%依存しているのは疑う余地がありません。特にビジネスでは、サプライチェーン全体を通じて自然との関係を考えなければなりません。
東京大学グローバル・コモンズ・センター(CGC)では、世界のそれぞれの国が貿易によって各国の自然や環境にどれだけの影響を与えているか、という観点で研究を行っています。例えば、日本は食品の60%以上を輸入に頼っていますが、その過程で1次産品を生産する輸出国の自然に大きな影響を及ぼしています。日本は自然を大切にする、環境に優しい国だと主張しても、実際には日本への輸入が多いグローバルサウスの自然環境に大きなインパクト(負荷)を与えています。さらに、そうした国々が持続可能な生産を続けられるような対価を支払っていません。
TNFDの最も大きな使命は、ビジネスと自然の関係を見直しリセットすることです。自然の価値をきちんと評価して対価を支払うことにより、グローバルサウスの国々で自然と関わりながら生産に従事する人々を経済的にサポートすることができます。ここに留意することが重要だと思います。
TNFDへの対応で企業に訪れる「リスクと機会」
TCFDとTNFDとでは、企業が取るべき対応に違いがありますか。
原口
TCFDのリスク評価と情報開示は、GHG(温室効果ガス)の排出量を把握するというシンプルなものに依拠しています。もともとは気候変動によって世界の金融システムが不安定化するというシステミックリスクを軽減するために、気候変動の原因となるGHGをどれだけ排出しているかという情報開示を求めたところから始まっています。しかし、例えば地球温暖化によって海水面が上昇し、グローバルサウスの島しょ国が被害を受けたとしても、誰が排出したGHGが原因なのかをひもづけることができません。そうしたメカニズムも一因となり、日本では脱炭素が機会として認識されず、投資が後れをとっているという課題も指摘されています。
それに対しTNFDの情報開示に必要な自然や生物多様性の状況は、そうした単一の測定指標で示すことができません。また、自然や生物多様性に対する影響は場所によっても大きな違いがあり、同じ活動によって与えた影響のネガティブの度合いが異なってきます。さらにTNFDでは、リスクだけでなくオポチュニティー(機会)も考慮し、いまの活動が生物多様性にネガティブな影響を及ぼしているのなら、それを変えることによりビジネス機会につながるというメリットも当初から示しています。この部分がTCFDとTNFDの大きな違いです。
TNFDや生物多様性への対応は、企業にどのようなリスクや機会をもたらしますか。
原口
まず、自然に対してネガティブな影響を与え続けた場合、その自然環境に依存して生活する地域住民、あるいはそうした人々を支援するNGO(非政府組織)から訴訟を起こされるというリスクが考えられます。場合によっては、現地国の政府からビジネス活動の資格を剝奪されることも考えられます。
生物多様性への対応をどのような機会に結びつけるかは、まさに企業の経営戦略そのものであり、経営者の意思決定・経営判断にかかっています。まずは自然を破壊して稼ぐというビジネスから脱却・転換する必要があります。またCSR(企業の社会的責任)活動という水準から脱却し、ビジネスと自然を関連付けて戦略を策定することが重要です。
石井
生物多様性への対応をおろそかにした企業のリスクとして考えられるのは、金融機関からの投資や顧客企業との取引が止まるおそれがあるということです。たとえ自社が生物多様性への対応に積極的でも、サプライチェーンの端部で対応できていなければ、そうしたリスクに見舞われる可能性があります。過去数十年にわたる約2000以上の論文を精査した調査によると、生物多様性への対応を含む企業の取り組みとその企業業績には相関関係があることが報告されています。TNFDにのっとって生物多様性への対応を推進すると、投資家からの出資を呼び込むチャンスもあるわけです。
すでに先行している企業の取り組みはありますか。
原口
例えばブラジルのある化粧品会社は、アマゾンで採れる植物由来の成分のみを製品の原材料に使い、他の化粧品と同等の効能を出すという商品を研究・開発し販売しています。その原材料となる植物の栽培をアマゾンの農家に委託することにより、豊かな森林を守りながら地域の暮らしを支え、自社の事業成長の基盤としています。こうした取り組みが高く評価され、現在はニューヨーク証券取引所でADRとして上場するまで会社を発展させています。この事例はネイチャーポジティブなビジネスモデルを追求しながらビジネスチャンスをつかんだ好例であり、同じく自然資本が豊かなアジア各国にも通用する取り組みと言えるでしょう。
生物多様性に関する
日本企業の先行事例
キリンホールディングス
原口氏によれば、現状のところネイチャーポジティプを完壁に実装している日本企業の事例はまだほとんどないというが、そのなかでも先進的な事例として紹介したいのがキリンホールディングスだ。同社はTCFDの提言に加え、TNFDの要素を統合的に組み込んだ「環境報告書2023」を発表しており、そこでは自然資本に関する取り組み状況が示されている。具体的には、紅茶農園やワイン向けぶどう畑、ホップ細などにおける生態系調査や植生再生、水資源の利用状況を含むリスク調査に加えて、気候変動の自然資本への影響と自然を基盤とした解決策など多彩な取り組みと、それらに関する目標および成果を報告書にて公開している。
企業、大学とさまざまの立場から挑むTNFDへの対応
MS&ADグループでは、企業のTNFD対応にどのような支援を行っていますか。
原口
私が所属するMS&ADインターリスク総研では、1990年代から生物多様性に関するリスク分析やコンサルティングサービスをさまざまな産業セクターの企業向けに提供しています。しかし生物多様性への対応は本来、企業やサプライチェーンに含まれる各社によって状況が異なるため、柔軟なアプローチが求められます。そのなかで当社は長年にわたる経験・知見の蓄積があるため、最近になって生物多様性の支援に取り組み始めた競合他社より踏み込んだ支援ができると自負しています。
また、MS&ADグループでは三井住友フィナンシャルグループ、日本政策投資銀行、農林中央金庫などの金融機関と共同で企業のネイチャーポジティブ活動を支援するアライアンス「FANPS(Finance Alliance for Nature Positive Solutions)」を2023年2月に立ち上げました。TNFDが求める要件を金融機関の立場から支援できるのは、MS&ADグループならではの強みだと考えています。
東京大学グローバル・コモンズ・センターはアカデミアの立場から、企業や社会の生物多様性対応についてどのような貢献ができるでしょうか。
石井
東京大学グローバル・コモンズ・センターは、「地球という人類の共有財産、すなわちグローバル・コモンズを守る新しい枠組みを構築し実践する」という使命を掲げ、20年8月に発足しました。グローバル・コモンズを守るためには、産官学のマルチステークホルダーの協働が必要ですが、大学に設置されたのは、社会のなかで最もニュートラルでトラストを得やすいと思われたからです。
東京大学グローバル・コモンズ・センターは、人間の経済活動が地球のキャパシティー――その中には気候システムや生物多様性を含みますが――を越えないよう、経済システム転換を進めるための提言を行っており、TNFDのナレッジパートナーも務めています。人間と地球の関係のリセットのためには、自然資本の正当な価値づけと、自然資本を守っている人たち――小農とか森林保全に携わっている人たちですが――に還元することが必要です。これは大きなゲームのルールの変更ですが、この仕組みづくりを、日本企業のサプライチェーンに深く関与するアジア各国のビジネスリーダーとともに提言し、国際社会に届きにくいアジアの声を世界に伝えるための活動に力を入れています。
原口
石井先生がおっしゃるように、日本企業はアジア諸国の自然資本に大きく依存しており、TNFDを利用することで、よりそうした事実が浮き彫りになるでしょう。自然資本を増やしながらビジネス機会を拡大するネイチャーポジティブビジネスへの移行に向けて、日本企業とアジアの企業の経営者には、ぜひTNFDという共通言語をうまく活用していただきたいと思います。
企業のTNFD対応を強力に支援するMS&ADのサービス
生物多様性に関する深い知見に基づくコンサルティングを提供
企業のTNFDや生物多様性への対応を支援するサービスは、コンサルティング企業を始め、複数の企業から提供され始めている。各社のサービスでは、これまでのTCFDと同じ方法でTNFDをパターン化して適用しようとするものもあるが、生物多様性への影響・対応は企業ごとに異なるため、正確に評価するのが難しいという側面がある。
そうしたなかで、MS&ADグループでは、より個社ごとの課題に踏み込んだ支援を提供することが可能だ。事業が行われる地域や生物群系に着目しながら、自然関連のリスクと機会を管理するための統合的な評価プロセスとして、TNFDが提唱するLEAPアプローチ(Locate:発見、Evaluate:診断、Assess:評価、Prepare:準備)に基づき、より正確で解像度の高いアセスメントと未来に向けての対策の示唆を企業に提供する。